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私たちは今後あるべき文明社会をどのように構築していくべきか考え、何のために学んだのか、そして学んだことをどう活かしていくのか

人間は知らない物事を追求したい欲求がある。
そして物理学が生まれ数学が発達する。
その数学の中で、他の学問を発展させることにつながったのが、確率・統計の発見です。
統計学が使えるようになると、未来を予測することができます。

科学が未来を予測できるようになると、進歩・成長することが事前にわかり、それが信頼・信用を呼び、経済成長につながります。

また、科学を武器に用いることによって、国が強く大きくなります。大きくなった国は、その資金を科学に回すことによって、さらに科学を発展させ優れた技術・武器を作りました。
科学の発達によって、安定した経済成長が見込めるようになると、国同士は戦争という手段をとらなくなりました。
なぜなら戦争は採算が合わないからです。
それであれば、国同士が協力して貿易をした方が、経済的なメリットは大きいです。
これによって、現在では人類史上最も平和な時間が過ぎています。

このような状況になると、各人がそれぞれの幸せを求めるようになります。
幸せは心理学・社会学的観点や生化学的観点から説明されています。
これらの幸せに対する考え方は共通の前提があります。
それは、人は自分が幸せであるかどうかは、主観的な感情が幸せの根本にあるという考え方です。

しかし、対照的に、仏教をはじめとする多くの伝統的な哲学や宗教では、幸せは感情とは無関係で、幸せのカギは真の自分を知る、すなわち自分が本当は何者なのかを理解することであるとされています。
最大の問題は、自分の真の姿を見抜けるかどうかです。

SDGsに代表されるように、世界は今の平和を継続的に発展させようとしています。
しかし、我々の未来はこれまでの延長線上にはないとユヴァル・ノア・ハラリは「サピエンス全史」で語っています。
人間がAIなど機械と融合したり、ゲノム編集によって、従来の人間を超えた人間をも作り出せる可能性があるためです。
人間は神を超えた存在にもなりえると言います。

このような転換点において、私たちに必要なのは社会的・感情的な幸福論ではなく、私たちが「何になりたいのか」という在り方を問う素朴な疑問への答えです。
今こそ原点に立ち返り自分や人間とは何なのか問いかける時です。

激変し未来が予測できない歴史の中でも輝きを失わない名作や古典があります。
この普遍的な文化や芸術にこそ答えがあると私は思います。
だから私は人の心を揺さぶり続ける芸術を未来へ繋いでゆくことに尽力したいと思います。

プラスチックへの依存度を下げるために、どのような行動や対策が考えられるか?

プラスチック問題の解決策としてよく「3R」が話題となる。
3Rとは「リサイクル」「リユース」「リデュース」のことだ。
リサイクル(Recycle)=徹底的に再生産に回すこと。
リユース(Reuse)=ごみにせず、再利用すること。
リデュース(Reduce)=排出するごみの総量を減らすこと。

レジ袋の有料化はリデュースを目的としたものだ。
個人で取り組めるものとしてはこのリデュースが最も効果的と言われている。
しかしストローの取り組みのように代替品に紙が考えられる場合が多いが、プラスチックの問題の以前には紙の使用は森林破壊に繋がるから控えようとする動きがあった。
使い捨てプラスチックの削減は重要だが、紙袋などは持続的な利用が可能な代替品と言えるのか慎重に検討するべきである。
エコバッグの使用も推奨されているが、現在のコロナ禍のような状況ではその衛生的な部分での問題も指摘されている。

リサイクルにおいては、日本ではそれが進んでいると言われているが現実は熱エネルギーとしての再利用が多く含まれている。
原油由来のプラスチックの燃焼処理を推進することは、今世紀後半の実質的な温室効果ガス排出ゼロを目指すパリ協定の理念、そして、2050年までの温室効果ガス排出量80%削減を目指す日本の姿勢とも明らかに矛盾するものです。

科学による解決も期待されるが、バイオマスプラスチックや、生分解性プラスチックもまだ十分とは言えない。
例えばヨーロッパでは、オキソプラスチックという酸化型生分解性プラスチックが、潜在的にマイクロプラスチックによる環境汚染の原因となる、非常に小さな粒子に分解されるとして、使用規制に向けた動きが進んでいる。

私の提案としては、80年前の日本の生活に学ぶべきであると思う。
戦争下で消して豊かではないが、日本人はプラスチックに依存しない充実した生活をしていたはずである。
風呂敷や買物籠など以外にも学ぶべき点が多々あるのではないかと思う。
戦前・戦中の日本を学ぶことをタブー視する傾向があるが、今こそ欧米化以前の日本の伝統文化や生活習慣を学び見直すべき時なのではないかと思う。

デザイナーチャイルドを作成することは、人類の幸福につながるか?

デザイナーチャイルドは優れていると言えるのだろうか。
現在の人間の価値観で望ましいと思うものが、進化レベルの長期的な視点で正しい選択を人間ができると考えるのは大きな思い上がりなのではないかと思う。

少し前に障碍者は社会の役に立たないと元障碍者施設職員が入所者を殺害する事件があった。
優性思想は分かりやすく賛同や擁護の意見も多い。
ネットの質問箱に、障碍者を税金で保護するのは無駄なのではないか。
そのようなことをしていたら、経済も人類の遺伝子も弱くなってしまうのではないか。という質問があった。
いかにも、強いものが子孫を残し弱いものが淘汰されることで種は強く進化するのが自然の摂理なのではないか。
これが科学の正論のように語られ教えられている。
この質問に対する回答は要約すると以下のようなものであった。
「世界は弱肉強食ではありません。食べられる弱者のウサギが世界中で繫栄し、強者のトラが絶滅に瀕していることを見れば明らかです。弱肉強食ではなく適者生存なのです。」(以下略)

この回答は論理的なようで例が誤っている。
食物連鎖においてはピラミッドの頂点に近づくほど個体数が少なくなることは中学生でも知っていることだ。
バランスがとれた状態でも大型肉食獣のトラの方が小型草食動物のウサギよりも圧倒的に個体数が少ないのは当たり前なのだ。
そしてバランスが崩れたときに大きな影響を受けるのはウサギよりもトラなのだ。

ならば弱肉強食を論理的に否定できない状況で、人類はなぜ弱肉強食に逆行する「弱者保護」に力を注いでいるのだろうか。
倫理観を優先し人類は絶滅の道を進んでいるのだろうか。
「適者生存」とは何なのか考えてみる。

全ての個体は、多少の寿命の差こそあれ、最終的に必ず死ぬ。
食物連鎖の頂点にいたとしても「喰われ」はしなくとも死にます。
なので個体間の寿命の違いは、自然界全体で観れば意味はありません。
ある犬が2年生き、別の犬が10年生きたとしても、それはほとんど大した違いは無く、どっちでもいいことです。
10年生き延びて子を1匹しか生まなかった個体と、2年しか生きられなかったが子を10匹生んだ個体とでは、後者の方がより「適者」として「生存」したことになります。
 種としての「生存」が「子孫を残すこと」であり、「適応」の仕方が無数に可能性のあるものである以上、どのように「適応」するかはその生物の生存戦略次第ということになります。
つまり「強い者」が残るのではなく、「適した者」が残るということです。
必ずしも活発なものが残るとは限らず、ナマケモノや深海生物のように極端に代謝を落とした生存戦略もあります。
「適応」していれば、強いか弱いかは関係ありません。

人間の生存戦略は「社会性」にあると言えます。
アマゾンのジャングルに一人で放置されて生き延びられる現代人はいないといってよいでしょう。
ということは「社会」というものが無い自然状態に置かれるなら、人間は全員「弱者」だということです。
その「弱者」たちが集まって、出来るだけ多くの「弱者」を生かすようにしたのが人間の生存戦略なのです。
どれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の「弱者」を生かすことが出来るかは、その社会の持つ力に比例します。
人類は文明を発展させることで、前時代では生かすことが出来なかった個体も生かすことができるようになりました。

「優秀な遺伝子」というものは無く、あるのは「ある特定の環境において、有効であるかもしれない遺伝子」です。
遺伝子によって発現されるどういう形質が、どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能です。
現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、将来は「有効な形質」になってるかもしれません。
だから、可能であるならばできる限り多くのパターンを抱えておく方が、生存戦略上の保険となるのです。

 以上の事より、似たような遺伝子の人間ばかりになることは人間が種として弱体化することを意味すると私は思います。
よってデザイナーチャイルドは人類に幸福をもたらさないと考えます。

豊かで便利な生活を享受しながら、持続可能な社会を構築するためには

今の「豊かで便利な社会」とは、人々のニーズに応えた結果なのだろうか?
私は疑問に感じる。
過剰な品質が多すぎる。
より優れたものを提供しなければ買い換えてもらえないから必要以上の物がどんどん提供される。
ビジネスマンは「新たなニーズを創造する」ことを求められている。

 今回のコロナ禍で痛感した。
感染を抑えるためには人の動きを止めればよい。
すると多くの人が経済的に破綻する。
多くの人々は生きるために必要とは言えない贅沢な消費で経済が成り立っている。
国は感染が拡大しても「Go toキャンペーン」を強行せざるを得ない。
病気だけに目を向けていたら病気以外の理由で多くの人が死んでしまう。

 環境問題も同様なのではないか。
人の動きを抑えればCO2排出量は抑えられるだろう。
しかしコロナ禍の現状と同じように経済が衰退してしまうだろう。
個人に何ができるかと問われ、環境負荷の高い物は買わないとか、ごみを減らすためなど消費を抑えるような行動は、経済を衰退させ環境政策の予算を減少させてしまう可能性がある。

 現在の人間社会は必要な産業だけでは人口を支えられない状況にある。
泳ぎを止めると窒息死してしまうマグロのように、不要な贅沢を次から次へと投入し続けなければ経済が維持できない。
よって環境問題も何かをやめるとか減らすとかではなく、新たなビジネスで解決しなければ社会を持続させることは困難であると思う。

 例えば温暖化であれば、政府はガソリン車の廃止を計画しているが、電気自動車やハイブリット車、燃料電池車などで使用される充電池を製造するために大量のCO2が排出されると指摘されており削減は現実的ではない。
CO2は排出を減らすことを目指すよりもカーボンリサイクルの産業を加速させることを考えた方が本質的であると思う。
CO2はカルシウムと化合させれば石灰石になることは中学の理科で知られている。
コンクリート1立方メートル当たり、およそ100キロの二酸化炭素を吸収でき、強度は一般のコンクリートとほとんど変わらないという。
窒素と化合させれば有機物だ。
アメリカ・カリフォルニア州のKiverdi社が、空気中にある二酸化炭素などから生成されるタンパク質「Air Protein」を発表した。
フィンランドのSolar Foods社も水とCO2と電気のみからつくるタンパク質「Solein」を無限に生産できるという。

 私たちに出来ることは、何かをやめたり減らしたりすることではなく、産業で解決を目指すことが環境と経済の両立を図ることだと思う。

禅に対する私感

日本の伝統文化三道(華道、書道、茶道)について日本人は歪んでいたり、欠けていたり、変わりゆく不完全なものに美意識を見出した。
また、戦いの技『術』であった武術は人間形成の『道』の武道へと変わっていった。
15〜16世紀に民衆に浄土信仰が、武士に禅が広がり、全てのものは常に変化していて根本的実在性は無いという仏教の無常を強調された禅は日本文化受容の基盤となった。

禅は自分の内面に宇宙があると考える点が興味深いと思う。

キリスト教は教会に古今東西の膨大な蔵書を大切にし聖職者はその書物を読み研究している。
そもそも聖書という経典を重んじ規範としている。
その影響だと思うが欧米人が書いた自己啓発書などはインプットを重んじる傾向がある。
勉強しなければそれ以上のアウトプットを出すことはできないという論理展開が多い。

しかし禅は教義を重んじず、座禅を主とした修行によって自ら悟り知恵を得ようとする。
インプットではなく知恵を鍛え成果を創出しようとしている。
人の内面に無限の可能性を信じている点が素晴らしいと思う。

教育の考え方も欧米の影響が大きいのか、成長のためにはいろいろなトライやチャレンジが大切というのが主流に思う。
しかし禅の修行は日々の細かなことにまで作法が決められていて毎日同じことを繰り返す。
しかし、だからこそ自分のわずかな変化に気付くことができ成長を実感できるのだという。

つまり、人はどのような状況にあってもその人次第で成長することができるのだと言えるだろう。

芸術教育において主流である、古今東西の優れた芸術を学ばなければ良い作品を描くことはできないという考えよりも、
自らの創造力を鍛えることで無限の心象風景を描き出せる「禅」の考え方が好きです。

禅僧は立派な寺にいなくても、一人で山中で悟りを得たりする訳で、
進学校へ進まなければ名門大学に合格できない訳ではない。
優れたコーチに師事しなければプロのプレイヤーになれない訳でもない。

単なる効率や確率の問題だ。
寄り道のない人生にどれ程の価値を感じるか?

明日死ぬかのように悔いなく生きることは大切だ。
しかし、永遠に生きるかのように学ぶことに私は価値を感じる。


複雑で、多様性が共存する、更に、不確定なグローバル社会の中で、私たちはどのように行動しなくてはいけないのか

このような場合、多くは「広い視野を持つ」とか「情報に敏感に」などという意見になるのではないかと思いますが、私は真逆です。
多様な価値観や考え方があふれ激しく変化してゆく状況においては、まず自分自身の価値観や考え方を明確に持つことが大切だと思います。
自身の明確な価値観や考え方がある上で、新しく異なる価値観や考え方を理解し受け入れれば、その人の知力は加算されるでしょう。
しかし自身を明確に持たない人が異なる様々なものを受け入れてゆくことは、ただ流されているに等しく、何も増えることなくむしろ様々なものが曖昧になり自身が減ってゆくのではと思います。

国際政治学者の三浦瑠璃氏は子ども時代TV視聴を禁じられ新聞もほとんど読む機会がなかったそうです。
このようなエピソードは他の東大出身者にも多くみられ、よくマスメディアは「東大に行く人は幼い頃からそれほど勉強漬けだった」というような伝え方をするが正しくないと思う。
彼らは他の人がTVを観ている時間に問題集を解いていたわけではなく自分の興味のあることに時間を使っていた人がほとんどだ。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」で秋山真之が学生の頃、街で新聞の号外を受け取り、その内容に驚き急いで同居の兄に報告をすると「新聞を読んではいかん」と厳しく叱られる場面があります。
その理由が「自分の意見が出来上がっていない人間が新聞など読むと流され自分を見失う」ということでした。

三浦瑠璃氏のTVや新聞もこういうことだったのではと推察します。
彼女は高校時代、今の日本の首相が誰なのか知らなかったそうです。
しかし今はグローバルの最先端にいます。


ネットやSNSで最新の国際情勢を知っているつもりで情報通だと思っている人は愚の骨頂だと思います。
幕末の政治的影響力のある要人に坂本龍馬が「もっと世界に目を向けろ」と言うのは納得できますが、私たち一市民は自国の文化やアイデンティティに目を向け正しく学び、自身の「在り方」について考えるべきであると思います。
特に未来を担うと自負する者には強く言いたい。
多様化し激動する今こそ足元を見つめ揺るがない自分を持つことが大切なのではないでしょうか。
そうでなければ本当の意味での「受け入れる」ことはできないと思います。

食の問題、格差の問題、これ以外にもグローバリゼーションはさまざまな問題を引き起こしました。感染症の拡大もそのひとつです。こうしたグローバリゼーションの影の部分について目の当たりにする中で、自分たちにできることはなにがあると思いますか。

 私のこの問いに対する回答は「選挙に投票する」です。
グローバリゼーションは高度に政治的な問題で、よく言われがちな食糧問題などだけで語ることではなく経済や安全保障など複雑な問題です。
また個人でグローバリゼーションに反対する思想を持ち何か行動や発言をすることはナショナリズム的であり現代日本社会では差別主義や右翼思想と捉えられたりする恐れがあり控えるべきと思います。

 個人でグローバリゼーションに対抗することはできません。
総理大臣になったとしても不可能です。
トランプ大統領はナショナリズムを前面に押し出した政策をとりましたが、4年間でわずかな中国企業を追い出したこと以外に大きな成果を生み出しているとは思えません。
むしろアメリカは分断し人種や移民に対する差別問題が再燃し混乱に陥っています。
ファシストのヒトラーもユダヤ人を排斥することはできませんでした。

 よく地産地消を進めることで無駄なコストを抑え食糧難の解決につなげる話がありますが、コストが抑えられるということは誰かの収入がなくなるという事でもあります。
日本が東南アジアの養殖エビを買わなくなればマングローブの森は守られるかもしれませんが、生産地の多くの人が失業し国家レベルで外貨獲得機会を失い経済危機を迎える可能性があります。
貿易を減らしたら、途上国の人は今より多く餓死することになると私は思います。

 貿易に不均衡や不平等があってはいけません。
フェアトレードを支持することは個人でできる事として良いことであると思います。
しかし輸入食品の不買運動をするようなことは愚かであると思います。

 フィリピンのゴミ捨て場で働く人の話のように、現代の人口増に伴い職業難は深刻です。
コロナ禍の「Go toキャンペーン」推進でもわかるように、現代は生きるために必須ではない職業で経済が成り立っています。
感染拡大を制御するためには外出制限をすればよいことは明白ですが、そうすればコロナ以外の理由でコロナ以上に人が亡くなります。

グローバリゼーションは極めて高度な政治的問題です。
国民の知りえない情報も加味して判断されるものであると思います。
国民個人は国民の代表によって判断された政策に従うべきです。
戦争のない平和な生活を求めるのであればナショナリズムは危険であると思います。

長女がパラダイムシフトを経験した話

 長女は美術学を専攻し趣味でもイラストを描いています。
そんな娘の物語です。

趣味のイラストは好きなキャラクターや作家の絵を模倣することから始まります。
画力が付いてきたらそのキャラクターの表情やポーズを変えたりします。
この先に大きな壁があります。
「絵師」と呼ばれる人たちはそれぞれオリジナルの個性があります。
「絵師」を目指す人たちは模写を超えるために新しい表現方法を模索します。
ただ変わったことをすれば評価されるわけではありません。
今はSNSなどで個人がどんどん自分の作品を世に出せる時代です。
そこには多くのプロが存在し、それらの技法を習得してさらに隙間を書き分け世に出ようとするアマチュアが無数にひしめいています。
そんな中で光る個性的な表現を模索することは、非常に苦しい試行錯誤の繰り返しです。
やっとみつけた自分の表現、それが良いものだとすぐに盗まれてしまいます。
苦しみぬいて生み出した私の大切な表現方法を、勝手に盗んでさも自分の個性のように作品を挙げる。
そんな人は許せない。
これが私の娘の本来持っていた価値観です。

 そんな長女の大学の先輩でセミプロのイラストレーターのSさんという方がいます。
ある日SさんのSNSに「絵柄を勝手にまねしている人がいますよ」という書き込みがありました。
するとSさんはその書き込みに対し「皆さんSの絵柄を沢山真似してSの絵柄を流行りにしましょう。」と書き込みました。
長女は自分とは全く逆の価値観に衝撃を受けました。

そうか、私の絵柄が流行れば、私の絵柄が流行りの中心の絵柄ということになるのか、と長女は気付きました。
 超個性的な事をしてずば抜けたとしても、それは異端で中心ではない。
自分が本流の中心になれば、身を削る思いで異端を貫き続けるよりも、より確実に成功できるのではないだろうか。

 S先輩の話を聞いて、私は本来「特許」もそういう考えなんだと教えました。
長女は、特許は発明者の権利を独占的に守るためのものだと思っていたので驚きました。
特許は優れた発明をお金さえ払えばだれでも使用できるところが素晴らしいと伝えました。
特許制度によって優れた発明が共有され世の中の産業が急速に発達したことを長女は知りました。

 長女はS先輩のような方がいるから文化が発展し、本人も周りの人も幸せになるんだぁと思い、自分もそうありたいと思ったそうです。

漫画がなぜ日本で発達したのか、その理由を日本文化から考察する

歴史や文化から漫画を語ろうとすると、まず最古の漫画と言われる国宝「鳥獣人物戯画」に注目したい。
すでに日本では平安末期に漫画的手法が確立されていたことに驚嘆するが、それを大切に後世に残し国宝に指定する日本人の文化的価値観を考えると「オタク文化」が近年突然現れたものではなく、漫画は日本人の根底に代々伝わるアイデンティティであると言っても過言ではないように思う。

その後西洋では絵画はキャンバスや壁画などで豊かな色彩と共に写実的に発達してゆくが、日本では蒔絵が発達し紙上で線画と言葉が融合し漫画の形態がより完成に近づく。
その後、俳人の文人画など言葉と絵は常に密接に表現の方法として発達する。
画法も浮世絵のようにデフォルメされた線画が発達し、日本人は絵から想像力を膨らませることを楽しんだ。

また日本語の特徴にも漫画に適した要素が見られる。
敬語の存在や人称代名詞の豊かさだ。
これらは社会的立場を表現するものであり、これらを駆使することで人間関係を説明せずに読者に感覚的に理解させることができる。
これは落語によって長年磨かれてきた表現技法であると言える。
更に日本語には特異な特徴として表音文字の「かな」と表意文字の漢字が混在している。
視認性が良く文字数も少なく表現できる。
また平仮名とカタカナを使い分けることで擬音との区別が容易であったり感情などの表現演出にも使える。
日本語は少ない文字数で様々な表現効果をなすことができる最も漫画に適した言語なのではないかと思う。

そして昭和20年代、日本は敗戦によって多くの書物が失われ、映画や芸術などの文化的娯楽も十分に楽しむことができない時代がしばらくあったことで、手軽に楽しめる漫画雑誌が普及し優れた作家が多く輩出されたことが現代の漫画文化の開花の要因であると思う。

災害から地域を守るための関心のある技術の長所と短所を調べると共に災害発生時にあなたが何をできるかを考える。

 私の家では「感震ブレーカー」が設置されています。
「感震ブレーカー」とは、地震発生時に震度5強以上の揺れを感知した時に、ブレーカーやコンセントなどの電気を自動的に止める器具です。
大規模地震時の出火原因が特定されている火災の約6割以上が「通電」による火災となっています。
そのため、「感震ブレーカー」の設置を進めることで、地域で大規模地震時の出火予防を図り、火災による被害を減らすことが期待されます。

 私が住む地域は木造低層住宅が密集する住宅地です。
火災が発生したらすぐに延焼してしまう可能性があり、自治会が働きかけて全家屋に「感震ブレーカー」の設置を目指しています。
しかし市の補助があるとはいえ個人の費用負担もあり設置は任意で義務ではありません。
また賃貸住宅の居住者は自治体への未加入が複数いて、自治会の働きかけが届かない部分があります。

 昨年、自治会の防災訓練に参加して、自治会が「共助」のために多くの努力をしていることを知りました。
また自治会による運動会やお祭りなど家族参加型のイベントは単なるレクリエーションではなく、自治会が町内の家族構成を知りコミュニケーションを図るなど防災的な意図があるのだと感じました。
私が災害発生時に地域に貢献するためには、近隣の方々や自治会の役員の方々と日頃からコミュニケーションをとることがまず第一歩であると思います。

煙草喫煙に関する問題に対する私の意見

たばこに健康リスクがあることが明らかであっても、 合法である以上、 成人はたばこを購入する権利があります。
また、 法律やルールを守っていれば、 受動喫煙防止が徹底された指定喫煙所で、喫煙者がタバコを吸う権利はあります。
つまり、 全ての人が守っていれば、 吸う人も吸わない人も共存できる環境になるかもしれませんが、現状では、 指定喫煙所以外の喫煙、 ポイ捨てなど、 明らかな法令違反、ルール違反、 モラル違反もごく一部ではあるが絶えません。
ルール違反者をなくし、 吸う人も吸わない人も気持ちよく、 吸いたくない人は吸わないですむ、やめたい人はすぐに禁煙できるようにするにはどうしたらよいでしょうか。
受動機煙防止に配慮した喫煙所を多数整備するという意見もあるかもしれませんが、喫煙所の整備にはコストがかかり、 完全な分煙は技術的にも難しい現状があります。
あなた自身が当事者として、具体的にこの問題解決に少しでも貢献できることがあるとしたら何かを述べてください。


たばこの害については中学校や高校で繰り返し教えられている。
私自身も街中などでたばこの煙を迷惑に思ったことが何度かあります。
なので喫煙に反対したり分煙を進める人たちの言っていることはわかります。
しかし喫煙をする人側の気持ちや考えがわからないので知りたいと思いました。

 養老孟司東京大学名誉教授はヘビースモーカーで知られています。
医学博士でありながら日本歴代4位のベストセラー作家でもあり知の巨人と称される養老教授はなぜたばこを吸うのか、調べてみたいと思いました。

養老教授いわくたばこの害や危険性は証明されていないと言い、自身も82歳になられても未だ精力的に活動されその言葉を体現しているように見えます。
この発言に対し日本禁煙学会は激怒し公開質問状を送付しました。

その中で「養老氏は科学の基本を全く理解していません。」と論じ「たばこ業界から金銭を得ているのではないか」とまで言っているそうだ。

それに対し養老教授は
『編集部から止められたので返事はしなかったが、本当は
「これからもお互いに末長く元気にやりましょう」
とエールを送りたかった。
禁煙運動は喫煙者がいなければ成り立たない運動だから。』
と他所でコメントしている。

 これを見て養老教授の方が一枚上手かなと思うと共に、紛争の根本原因が気になりました。

紛争は大なり小なりいつも、自分の正当性や権利を主張しあうことで起こるように思います。
喫煙に反対する人は正論や権利の主張ばかりしてはいないか。
問題解決をしたいと思うのであれば、まず反対の立場の人を理解しようとすることが大切なのではないかと思います。

 このレポートを書くにあたり愛煙家の意見を調べようとしたら「禁煙ファシズム」なる言葉に出会いました。
喫煙を擁護する言論や表現が封殺されていると考える立場の者が、ナチス・ドイツが一時期行っていた反タバコ運動に絡めて、嫌煙権運動を過激であると非難して用いる言葉だそうです。
私もTVや映画で喫煙シーンが問題とされていることを知り違和感を抱いていました。

 この問題に貢献しようとするならば、繰り返しになりますがまずは喫煙者側の情報を正しく理解することが重要だと考えます。

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弊社には学芸員がいます

以前「学芸員もいないくせに資料保護とか笑わせるな」という陰口を人付けに聞きました。
ネット通販というと素人商売と思われるようです。
 
市など公共機関や準資料館施設などで、寄贈品の管理に困っている報道を度々目にします。
そのような場所の倉庫で死蔵されることが、コレクターに管理されるより良いことなのでしょうか?

公機関の学芸員の多くは非正規雇用で問題になっています。
多くは遺跡発掘調査担当の古代史専攻です。
他にいるとしたら美術史専攻でしょうか。
その方たちは戦争資料の分類ができるのでしょうか?
 
私も博物館学を広く履修しました。
それでも有資格者がいないことを理由に非難する人たちがいます。
なので国家資格保有者を配しました。

私たちは戦争の記憶を未来へ伝える最善手を考え実行しています。

学芸員修正

ショッピングカートを凍結されました

カート運営会社の規約がいつの間にか変わり、違反商品を出品しているという理由で、何の予告もなくショッピングカートを凍結されました。

ホームページもブログも一括して同じ運営会社を創業以来13年にわたり利用しているのに、ひどい仕打ちです。

違法な商品など何一つないのに、違反している商品が確認されたので削除しろという。
いったい何を削除すればよいのかわからない。
確認したのならそれが何なのか?何がダメでどうすればよいのか?
対応するから教えろと言っても具体的には何も言わない。
こちらを確信犯扱いして懲らしめようとかしていない。

今後ネットビジネスを考えている方は、絶対この会社と関わってはいけない。

美術と健康

1947年に採択されたWHO憲章では、前文において「健康」を次のように定義しています。「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。」
 健康における肉体的・精神的・社会的の3点に芸術及び美術がどのように関係しているのか考えてみたい。

 肉体的には、イギリスで行われた調査によれば、芸術的活動を「全く行わない人」に対し「年に1、2回は参加する」群は死亡リスクが14%低く、「2、3カ月に1回行う」群は「全く行わない」群より、およそ31%低いことが報告されている。

 精神的には、芸術とは、表現者(作者・演者)・表現物(作品)と鑑賞者が互いに働きかけたり、影響を与えたりすることで、感覚的・感情的・精神的な変化・動き・作用を得ようとする活動であると定義されていて、言うまでもなく最も影響の大きい部分であろう。

 社会的な観点では「美術」には興味深い点がある。それは美術は他の芸術の分野とは異なり、表現者と鑑賞者が同じ場所に同時に存在する必要がありません。美術作品は時や場所を超えて存在することができます。公共の場所や個人のプライベートスペースにも。美術は地域社会や個人の精神に永続的に影響を与え豊かにできる芸術であると言えるでしょう。
 つまり優れた美術作品を提供することは、人々の健康に貢献することであると言えるのではないでしょうか。

博物館経営のための資源

経営の基本資源は「ヒト」「モノ」「カネ」であるが、近年ではさらに「情報」「時間」「組織文化」が重視されている。

「ヒト」とは博物館で働くスタッフはもちろんだが、利用者やボランティア・友の会メンバーなども経営資源である。広く情報を提供し課題や問題の共有に努め博物館の活性化に貢献してもらえるようにする。

「モノ」とは収蔵品だけでなく、建物や設備、土地や周辺環境も経営資源である。

「カネ」博物館が生み出す収入は財源の2割弱程度である。残りの大半は公金や親企業の資金で運営されている。厳しい財政環境の中では自らのファンドレイジングなどの活動が求められる。

「情報」博物館はそもそも情報発信の場であることから、停滞や遅延は経営に大きな影響を及ぼす。

「時間」人材育成には時間が必要である。また展示やそのための収集のタイミングは経営に影響を及ぼす。

「組織文化」固有の共通の価値観、行動様式、思考方法などを組織文化と言う。博物館の活性化に重要な経営資源となる。

博物館経営の理念

 博物館は人間個人と同様に社会の関係の中で存在している。社会や地域から博物館の存在価値が認められなければ存在する必要がない。継続的に価値のある存在となるためには経営理念を確立する必要がある。
 経営理念は何を目的に事業活動するのかを自己規定するものであるが、博物館においては地域社会に対しどのような貢献ができるのかという社会的役割が重要なポイントである。

昔に少し関わった茅ヶ崎の養浜について

私が住む茅ヶ崎の海岸を含む相模湾沿岸は広域にわたり海岸侵食が問題となっています。
茅ヶ崎海岸も相模川のダム整備や河川改修が進んだため、土砂供給量が極端に減少したことや防波堤などの構造物による沿岸漂砂の遮断などの理由から昭和50年中頃から砂浜が著しく侵食されはじめました。
特に茅ヶ崎中海岸地区は50年間で50メートルの汀線が後退した侵食の顕著な箇所です。
このように侵食が進むと砂浜がもつ自然の海岸保全の機能が損なわれるとともに、海洋レジャーや地曳き網漁にも支障が生じてしまいます。

茅ヶ崎中海岸は砂浜が減少しているため、ヘッドランドの整備とともに養浜などの対策を実施しています。
しかしこのヘッドランドには様々な問題があります。
そもそも茅ヶ崎地域の砂の減少の原因は相模川からの土砂供給量が極端に少なくなったことに加え、漁港やヘッドランドなどの海域構造物による沿岸漂砂の遮断のためだと言われています。
またヘッドランド周辺は複雑な離岸流が発生し事故が多く発生しています。

サーフィンの盛んな茅ヶ崎では海岸の安全性にも十分な配慮がなされなければなりません。
茅ヶ崎では人工構造物に頼らない養浜を模索し多くの土砂を運搬投入てきましたが、海岸の砂は異なる地域から移植しても定着しない性質があり根本的な解決には至っていません。
今後はより自然に近い形で砂が付くよう、ダムの堆積土砂を海岸に運搬するのではなく、相模川中流に置砂し、川の自然の流れに任せて海まで流す山・川・海の連続性を考慮した「相模川流砂系総合土砂管理計画」が国、神奈川県、山梨県の関係機関で構成する協議会によって平成27年度に策定されました。

この茅ヶ崎発の方法が成功事例として各地へ浸透すればコンクリートの護岸に頼らない美しい海岸が日本中によみがえるのではと私は期待しています。

博物館と共栄のために(序)

キュレーターは歴史の勉強ばかりしていて、脳が江戸時代に侵食されているようだ。
学士様は商人をひどく馬鹿にしている。

このことについての詳細は日を改めて書こうと思う。
要はキュレーターは資料がマーケットに流出すると価値がなくなると考えている。
しかし弊社は、マーケットを利用して戦争遺品を後世に伝えようとしている。

キュレーターは我々に死んで欲しいと願っているようだが、私は博物館等の公的機関と共栄し、不足を補い、より資料の保護を盤石にしたいと考えている。

私は学芸員資格を持っている訳ではないが、今は便利な時代なので実習以外の学芸員科目を全て履修している。
使命を持って業を企てる私を、転売屋のごとく捉えることは遠慮願いたい。

最下層と卑下される商人目線で、キュレーターが苦手な経営を中心に博物館について何回かに分けて論じたいと思う。
今回は序章である。

 博物館は、人類の知的・文化的資源を将来へ継承する使命を持っている。この使命を全うするためには、博物館をいかに維持・存続・発展させるかが重要な課題である。
 博物館はその存在意義が社会性と共に事業性の面からも厳しく問い直されている。効率性や採算性の追求による統廃合や民間への業務委託なども進んでいる。このような厳しい経済状況の中において,博物館を維持・存続・発展させるためには、博物館職員の経営意識を高めることが重要である。
 しかし学芸員資格を取ろうと考える学生の多くは,専門分野のエキスパートであるがゆえに経営や経済に関する授業をあまり履修していない。基本的な経営学の知識も,民間就職経験も無い学芸員が,社会情勢を把握しながら経営学的知識を自力で取り込むことは非常に難しい。博物館は近年,展示中心から,地域の中核となるような情報発信,地域教育の場としての新たな役割も強く求められてきている。このように多様化高度化する中で、社会の経済状況や時代のニーズやトレンドを学芸員が経営学的視点でとらえられるようになるための基礎知識が必要である。
 また、経営の要は顧客主義である。博物館においても利用者の楽しみ、満足や感動を創出する運営こそが大切であることから、経営を学ぶ意義は大きい。

衣類の管理状況について

衣類の管理状況についてお問い合わせがありましたので簡単にではありますがお伝えします。
上着やコート類は密閉されていないが直射日光のあたらない通気性の良い場所に木製ハンガーで吊るして保管しています。
蛍光灯は通常の物で紫外線対策はなされていないため最小限の照射にとどめるように注意すると共に退色が懸念される生地には和紙のカバーを装着します。
室温は18度~30度、湿度は55%~65%の範囲で通年エアコンで管理しています。
殺菌はシャープのプラズマイオン大型空気清浄機2台を常時稼働、及び次亜塩素酸ナトリウムの噴霧を行っています。
防虫はピレスロイド系薬剤噴霧を断続週30時間程度。パラジクロロベンゼンの使用は一部密閉保存された衣類を除き出荷時のみです。

指揮刀は銃刀法上問題ないのかと質問を受けました

指揮刀の所持は合法です。
これは最高裁で判断された判例があります。
以前ご説明した方がそんな都合の良い話は信用できないとおっしゃっていたので判例を貼っておきます。
知人の司法書士によると有名な判例だそうで法律系の資格試験でよく出題されたことがあるそうです。

最高裁判所第一小法廷 昭和41年(あ)2952号 決定
<前略>
一、銃砲刀剣類等所持取締法において取締対象とされている刀剣類とは、社会通念上、刀または剣等のそれぞれの類型にあてはまる形態と実質とを備えている刃物を指称するものと解するのを相当とし(昭和三一年四月一〇日最高裁判所第三小法廷判決参照)、また、刀の形態を備えていても、その実質すなわち(一)鋼質性材料をもつて製作された刃物、(二)または、ある程度の加工により、刃物となり得るものであることを備えていないものは、法にいう刀剣類にはあたらないと解すべきものと思われる(昭和三六年三月七日最高裁判所第三小法廷判決参照)。

換言すれば、鋼質性材料をもつて製作されたもので、刀剣の形態を備えているものであつても、それが通常、人の身体を損傷する用に供される危険性があるものでなければ、社会通念上刃物とは認め難く、また、それが通常、ある程度の加工によつて刃物となり得ないものはこれまた刃物とは認め難く、このようなものは結局法にいう刀剣類にはあたらないのである。

二、ところで、本件儀礼刀は、鋼質性材料をもつて製作されていることは認められるが、押収にかかる本件儀礼刀そのものの観察によつて明らかなように、その刃先は相当の厚味をもつて危険性のないようにすべて潰してあり、刀身全体に刃はつけてないのである。この儀礼刀はもともと装飾用、儀礼用として製作されたものであるから、製作の際危険性のないように刃先を潰してあるのであつて、勿論、これにある程度の加工を加えて刃物とされるだろうとの意図があつて作られたものではなく、このようにわざわざ危険性のないように刃先を潰して作つてある儀礼刀は、社会通念上刃物とは到底認め難いのである。

三、次に、この儀礼刀が、ある程度の加工によつて刃物となり得るかどうかの点について、第一審鑑定人徳永勲、宮崎豊作成の鑑定書によると、本件儀礼刀に刃をつけるには、電動式グラインダーを使用して切削した後、砥石を使用して研磨すれば、その所要時間は約七、八時間であり、また、電動式か手動式のグラインダーを使用せずして、平ヤスリを使用して切削した後、砥石で研磨すればその所要時間は約十四時間と考えられるとのことであるが、この鑑定書のとおりであるとしても、一般世人が通常考えられる手近かな方法によつて加工するとして、決して短時間に容易に刃をつけ得られるものでないことが認められる。

鑑定書記載のような一般世人が容易に入手使用のでき難い特別の機械器具を用いても、なおかつ七、八時間乃至十四時間位も加工しなければ刃がつけ得られないような場合は、前述の刀剣の意義にいう「ある程度の加工によつて刃物となり得るもの」に該当するとは常識上到底認め難い。

たとえば、装飾用、試作用等のため作られるものが、一応刀剣の形態を備えてはいるが、全然刃先をつけてなく、鋼質性ではあるが、未だ素材の程度のものや、実社会において多くの事例が見受けられるような刀剣の形態に似た鋼質性の素材に過ぎない程度のものに対し、グラインダー等の切削、研磨の機械、器具を使用すれば、七、八時間乃至十四時間位で刃先の全部または一部がつけ得られることをもつて、「ある程度の加工によつて刃物となり得るもの」として、これらを刀剣類に該当すると解することは社会通念上到底首肯することができないのであつて、この理は本件儀礼刀の場合にも通ずるものがあると思われる。

四、本件儀礼刀は、儀礼用、装飾用として製作されたものであつて、このことはその外装や、刀身の刃先が完全に潰されてあつて、素人が容易に刃をつけることができないようにしてあることからも明らかであり、刀剣の形態は備えているが、通常、人を損傷するに足りる危険性のある刃物とは認められず、全体として受くる感じは専ら儀礼用、装飾用品という感じである。

すなわち、本件儀礼刀の形態、実質、製作の目的、用途、更には人を損傷する危険性がないこと等に照らし、刀剣類所持禁止の法意が、通常、人の身体を損傷する用に供される危険性のあるものを取締るにあることに鑑みると、本件儀礼刀は法にいう刀剣類には該当しないものと信ずる。

然るに原判決は、ある程度の加工により容易に刃をつけうることが肯認されるとして、結局法に規定する刀剣類に該当すると認定されたことは失当である。<以下略>

コロナ禍の小学6年生が校長先生へ直訴する話

珍しく小6の三女が私に力を貸してほしいという。

コロナで運動会も修学旅行も実施が危ういので6年生としては何か思い出になるような別の学校行事を企画したいと言う事で『学校キャンプ』を提案するそうだ。

なぜかうちの三女が校長に直訴のプレゼンをするそうなのだが、ただ何かやりたいだけでは説得できそうにないので知恵を貸してほしいとの相談だ。

ちょうど長女の教育課程論で教育カリキュラムには『個人』『社会』『現在』『将来』の視点が必要なんて論じたばかりなので、三女の企画に足らないものと合わせて5年生の林間学校との相違点など考えてみる。

加味する点は『将来』と『社会』の価値、そして自然ではなく学校に宿泊する意味。

ははぁ~お父さんひらめいちゃいました。

災害時の避難所生活体験を盛り込めばよいじゃん。

今、感染症対策をしながらの避難に社会の注目が集まっている。小学生が避難所宿泊の体験学習を実施する社会的価値は高い。そして子どもたちはこれからの新しい社会を生き残る力を身に付けるだろう。

 

この企画が世に広がった際は発案者はうちの三女と言う事でよろしく。TVに出たいそうなんで

金銭損得とは違う価値

大学から送られてくる難しい定期刊行物が未読で山になっている。
年末なので嫁に見つかりリビングへ。
捨てろと無言の圧力。
渋々手に取っていると高校1年生の次女が
「あっ父さんが更に教養を深めようとしている!」と茶化す。
 
ちょっと真面目に次女へ話す。
「このような難しい本とは不思議なもので、お母さんの様な一般の多くの人には全く価値の無い物だけど、父さんにとってはその英知は金銭では計れないものすごい価値があるんだよ」
ちょうど山の中に「文学は社会の役に立つか?」というテーマで高校生が書いた論文が収録された本があった事を思い出し探して次女に渡す。
 
損得ではない価値がわかるかな?
高校受験の時に学校選びの着眼で図書館の蔵書を重視していた次女に期待。
 
次女が一言。
「バイトをするようになって、色々な大人の人と接して知れば知る程お父さんの凄さが身に染みるよ」
 
 
読ませたいお勧めの本はもう買ってあるから、急いで読んで渡すね。
簡単で面白いやつだよ。
 
本当は社会とは何かを考察する際に写真の本とかも読んで欲しい。
というか父さんはこんなものも仕事柄手元にあるので考察が深いのだよw

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大学のレポート作成が楽しい!!

少し前の話題ですが長女が大学の初めてのテスト期間になり、予想はしていたがやっぱり泣きついてきた。

教職関係科目のレポートは、教育の理想論をぶちかませるので楽しい。
前職で講師研修をしていた頃を思い出す。

さらに楽しかったのは哲学。
事前に知らされた課題は、「存在論の起源とデカルトの立場を論じろ」と言うもの。

起源としてのアリストテレス第一哲学からプラトンの二元論。それをデカルトと対比して心身二元論を説明し、立場の視点はデカルトの自然科学的なアプローチについてをアリストテレスの「第二哲学」に絡めた話を伏線回収的に書いたら良いじゃん。

ああ楽しい。

長女にとっては学校の試験は第一領域だろうが、大人から見たら学生はとことん第二領域に集中した生活だなぁと羨ましく思う。

長女の世話は自分ではなかなか確保できない第二領域を強制してくれるので人生が豊かになってしまうなぁ。

ところでこの時間管理のマトリクス用語は一般の共通言語として使用して大丈夫なのかな?

先日長女の大学の学祭へ嫁や次女・三女と総出で行ってきた。

展示や体験が楽しい理系の校舎へ行ったら偶然長女の「美術学」の教授2名と会った。
1階のロビーに理系以外にも各学部がブースを出すスペースがあって、今年は当番だそうで塗り絵コーナーをやっていた。
なんと贅沢w
美術学の教授は3名なのでもう1人のY教授は?と尋ねると、はるか彼方の校舎の地下の受験生相談のコーナーに1人でいるからぜひ訪ねてやって下さいと言う。w
Y教授は長女が受験の際に最初の説明会でお会いした方で、その時は本命ではなかった「古典美術」に舵を切るきっかけとなった印象深い方だ。
ただその後の入試指導などで何度か大学に足を運んだ際あまり会う機会がなかった方なので、入試相談会場で職務中のところを無目的に訪ねていくのはいかがなものかと思った。
その後私は次女と理系の学部のアカデミックな展示を楽しみ、嫁と三女は飲食へ。
理系の展示を一通り観てそろそろ別の校舎へ移動しようかと嫁に電話をすると、あろうことか塗り絵をしているという。
仕方がないので塗り絵ブースへ行くとT教授が「Y教授には会われましたか?」と言うので「あれからずっと理系の展示を観てまして、これから行きます」と思わず回答してしまう。
 
その後嫁と娘たちは漫研で似顔絵を描いてもらうと言う。
私はナルシストではないので1人で入試相談会場へ行ってみるとY教授は相談者もなくぼんやりしていた。
目の前に立っても気付かない。
声をかけたら一瞬驚かれたが名乗ったらすぐにわかってくれた。
「やあ久しぶり」と随分フランクだ。
退屈だったのか。私が受験生の保護者という立場ではなくなったからか。
相手が懐を開けばそこの潜り込むのは私の得意技だ。
10秒で再会した旧友だ。

どのくらい話したかな。体感的にはほんの一瞬だ。
教授は娘を「染屋」と呼び捨てにするから、旧友と話しているようなトリップ感が凄まじい。
お互いかなり無礼寄りのフランクw
気持ち悪いくらい話が弾む。

学生スタッフに相談希望者がいるから雑談はやめてくださいと追い払われるw
教授は「じゃあまた」と言い別れる。

 
Y教授はとても興味深い男だ。
ここはテニスならば一気にネットに出てボレーを決めて友人になるところか?
嫁に話すと「お父さんが教授と友達になって喧嘩して娘が退学なんて嫌ですよ」と言う。
 
私は利害関係がある人とは友人にならない主義だ。
しかしなんとも面白い。
ああ面白かったでも十分かもしれないが、如何なものか。
 
 
リップスティックを作るブースの理系の大学院生が以前私と雑談したを覚えていて話しかけてきた。
面白いお父さんに会ったと教授にも話したんですよなんて言う。
こっちも友達になれそうかもねw
なんだか娘の大学は波長が会う感じがして居心地が良く楽しい。

電話好きの年配者がビジネスマンにどう思われているか。という話

とあるビジネス記事の引用。
私もコンサル会社でビジネスマンとして躾けられたのでほぼ同意見です。
まぁ当事者には伝わらないんだろうけどね((´;ω;`)
また憂鬱な日々が始まる。。。。。


ホリエモンこと堀江貴文が、電話嫌いであることは有名だ。
突然かかってくる電話にいちいち応対していたら、自分の仕事が中断されて、リズムが崩れるし、メールをもらえれば一瞬でわかるような用事でダラダラ電話されれば、貴重な時間が奪われる。
「電話をしてくる人とは仕事をしない」と徹底している。

ホリエモンの言い分には、私も完全に賛同する。
電話する必要がないような用事で電話をかけてこられて、自分の時間が奪われるのが、とにかく腹立たしい。

メールでコミュニケーションできないのは、思考が整理されていない証拠。
つまり、伝えるべきことを適確に伝えるのがヘタなのだ。
電話は仕事のできない人間がするものであり、そんなヤツらに、仕事のジャマをされたくない。

「ホリエモンのような考えは極端であり、世の中の多くの人間はそう思っていない」

と考える人もいるかもしれないが、30代以下の世代は、幼少からメールやLINEなどの文字でのコミュニケーションに慣れているので、電話は必要最小限しか使わない人は多い。

どうでもいい用事で電話をかけてくるような人に対しては、いまの若者は嫌悪感を示しても不思議ではない。
仕事で無神経に電話をかけまくっている人は、陰で「使えない」というレッテルを貼られているかもしれないので、自粛したほうがいい。

出典:成毛眞著『一秒で捨てろ! 人生がときめく「逆転の整理術」』(PHP研究所刊)

次女の夏休みの課題

次女の夏休みの課題で戦争映画を観て感想文を書くというものがあった。
「ライフ・イズ・ビューティフル」を勧め共に観る。
意外に思うかもしれないが、心理学を専攻しフランクルを敬愛する私としては迷わず一択。
 
次女は何を感じただろうか?
タイトルの意味を考えて欲しいと思う。

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娘が死について考える

三女が大切に育てていたハムスターが逝ってしまった。
この種類のハムスターの寿命は2年~2年半だそうだ。
2年3か月。
ちょうど平均値。
まるでタイマーがあるかのように小さな命は止まってしまった。

写真はハムスターが2歳の誕生日。
三女が色々調べてハムスター用のケーキを作った。

もう次は無いだろうと覚悟はしていた。
 
 
家のペットではなく三女の家族。
三女の誕生日プレゼントとしてやってきた。
我が家にやってきた初めての動物。

我が家で一番チビだった三女がこの日からは、お世話をされる人からお世話をする人に。
ほとんどすべてのお世話を三女がした。

本を買ったり図書館で調べたり、体重を量って食事を管理して遊ぶ時間も決めてストレスに注意して・・・

三女はお姉さんと言うよりはお母さん。
本当に大切に育てていた。
1日でも長く一緒にいたいと願っていた。
 
 
 
三女と話をした。

苦しむことなく寿命まで生きてきっと幸せだったよ。
長く生きれば幸せなのかな?
三女は迷わず言う。
「幸せは時間の長さじゃなくて、どれだけ愛されたかで決まるんだよ。」
ならば父は迷わず思う。
幸せだったよ。
君の愛はきっと伝わっていたよ。

天国に行けたかな?
ハムスターの天国ってどんな所だろう?
寂しくはないかな?
お母さんや姉妹に会えて一緒にいるかもしれないね。
一番長生きしてみんなが待っていたかもね。
 
 
 
もうハムスターは飼わないという。

違うハムスターは来夢花ちゃんじゃない。
違うハムスターを飼ってだんだん来夢花ちゃんを忘れて行ってしまうのは嫌だ。

人生で初めての気持ち。
もうこんな気持ちになりたくないと言っていたけど、
このつらい気持ちをも大切にしたいと思ったのだろう。
 
 
また一番チビに戻ってしまったね。
元気が出るまで父さんがお世話をするね。



弊社の商品に動物の毛が付いていた場合、それはペットではなく防寒服や飛行服の毛皮が脱毛したものです。
事務所や倉庫はもちろん、自宅にも犬猫はいません。

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コレクターはたくさん持っていれば偉いのか?

軍装品をゴミの様に積み上げて大量に持っていることを自慢している人がいる。
それを羨んでいると思われる人たちがいる。

私は生まれも育ちも貧乏でコレクションを趣味としたことがないのでわからないが、
コレクターはたくさん持っていれば偉いのか?

私は物に愛情をもって大切にする人がコレクターなのだと思う。
数個しか持っていなくとも大切な宝物であれば立派なコレクターだろう。

数が多くてどこに何があるのかよく分らないなんて言う愛のない言葉が自慢になるのは悲しい。

まして軍装品は単なる物ではない。
そう思う。


捨てられてしまうよりはマシだが・・・・

お値引きについて

お値引きにつきましては全てのお客様にご遠慮頂いております。
弊社では皆様に公平に対応することが誠実であると考えております。

たくさん買えば安くするとか。下取りなら高く買い取るとか。
リピーターなら優遇するのに、相場が分らないご遺族は買いたたくとか。

このような判断は公平ではなく弊社では誠実ではないと考えます。
弊社は常に英霊に感謝し英霊に恥じない行動をとらなければならないと思っています。

現代の日本人が享受する平和と幸福のために、戦争の時代に大変な御苦労をなさった方々のことを伝える品物を不誠実に扱う事はできません。

ご理解賜れましたら幸いです。



以前もこのような記事を書いた気がしますが値切りが後を絶ちませんので違う形で書かせて頂きました。

プロフィール

someyagunsoh

Author:someyagunsoh
代表取締役 染屋雅俊

1965年4月27日生
千葉県佐倉市出身

略歴
陸上自衛隊
慶應義塾大学 文学部
進学塾・予備校教師
私学私塾経営コンサルタント
(東証一部・管理職)
[7Habits]公認講師

大叔父は海軍上等兵曹染屋雄三
横須賀第二陸戦隊所属。
海軍第五根拠地隊司令部付。
昭和19年7月サイパン島にて玉砕。

青春を護国に捧げ独身のまま戦死した子孫のいない大叔父の孫として生きる。

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